20050211

「母なる大地」「母なる海」などに挙げられるように、恵をもたらしてくれる海や大地は女性、特に母親に例えられる事が多い。では、山はどうだろうか。生態系を育む、資源を恵んでくれるという点では同じだが、その不動、神秘、包容力等などを考えると、父性のメタファーではないかと自分は思う。世間的にどちらなのかは知らない。

日本は海に囲まれた国ではあるが、その国土の大半は事実上山である。我々は山と海の挟み撃ちに遭いながら僅かに残った平野部に生息していることになる。

そういえば子供の頃絵を描く時必ず背景に山を入れた。僕の生まれ育った高知県は巨大な四国山脈の南側に臨んでいたから、県内どこからでも山が見えた。北には常に山があったから方位を見失うこともなかった。

考えるに、広く大きいと言われる海も海岸線まで行かなければ見ることは出来ない。しかし山は、僕が何をしている時であろうと常に視界に入っていたのである。静かに、力強く、それでいて存在を感じさせないよう気を使ってくれていたんだなと、今にして思う。

絵画の背景に配置するだけでなく、山そのものをモチーフとした事もあった。その絵は新聞社賞に入選し旅行に行けた。後にも先にも、自分の美術が賞などというものを獲得したのはその一度だけであった。

自宅のすぐ近くにも山があり自室の窓から眺めていた。というよりその窓からは山しか見えなかった。視界に入るなどという問題では既にない。


そして上京し、山を見失った。


広大な関東平野、地表を覆うように立ち並ぶ建築物、そしてどちらを向いても視界を遮ってくれるビルディング。東京に来てからというもの、山らしい山を見ていない。そしてその事実にすら気付かずに数年を過ごしていた。

さて、昨年の秋から僕は出張レッスンとして埼玉県川口を週一度訪れているのだが、すこぶる天気の良いある日そのレッスン中に、富士山の姿を臨むことが出来た。


↑わかりにくいけど。


思いもよらず富士山を見ることが出来たその瞬間、僕はドキッとした。
そして前回の丁野論で触れた伊香保の雄大な山々。

こうした出来事が重なり、山というものについて考えるようになった。正確には、忘れていた感情が甦った。
ここ数ヶ月で僕が山から得たインスピレーションにはきっと意味がある。

それはノスタルジーであり冒頭でも述べた父性の再認識であり、めまぐるしく変わる生活の中で生まれた不動への憧憬でもある。
そして人生において今しかないタイミングで訪れたシンクロニシティーなのだろう。



※このエントリーは、旧ウェブサイト内『丁野論』ページに掲載していた文章を、改訂・転載したものです。投稿の公開日は、過去に記事をアップした日に設定しております。

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