101209_幕末英雄列伝2
101209_幕末英雄列伝3
101209_幕末英雄列伝4
101106_井伊直弼
昨日の文章でも少し触れましたが、大国からの圧力に対し、現代の民主党と同じく弱気な態度で持って応じた政治家です。
不平等条約に調印し開国を断行するなど、外圧に対しては弱腰な対応をする一方、国内の反対勢力は強権を持って粛清し、その反動を受けて暗殺される事となります。現在公開中の映画、「桜田門外の変」でも描かれる、日本の歴史上重要なターニングポイントとなった事件です。
覇権国家からの不条理な要求に対し、感情的に反発する事は簡単です。しかし、冷静さを欠いた愛国心がどのような結果をもたらすのか、太平洋戦争の悲劇を、私たちは知らぬ訳ではありません。
現在某国に対する外交もまた、感情的にならず客観的な態度を持って成さなければ、同じ過ちを繰り返す事となるのではないでしょうか。
当時の井伊直弼の判断、日本開国は正しかったのか、間違っていたのか。
101108_近藤勇
新撰組・鬼の局長、近藤勇です。
新撰組という組織は、現在でこそ“日本史のアイドル的存在”として人気を博していますが、当時は“泣く子も黙る新撰組”と恐れられていました。
彼らに弾圧され、遺恨を持っていた尊皇攘夷派によって新政府が樹立された経緯から、明治以降は悪役の如き扱いを受けていました。
坂本龍馬の暗殺についても、当初最も疑われたのは新撰組でした。近藤も戊辰戦争に於いて新政府軍に捕縛された際、土佐藩士の強い主張によって、斬首に処されたそうです。
近藤の愛刀は虎徹(こてつ)。「今宵の虎徹は血に餓えている」の決め台詞は有名です。
101109_久坂玄瑞
松下村塾では、高杉晋作と並び「村塾の双璧」と。
高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門の四天王」と。
松陰には「長州第一の俊才」と・・・。
とにかく、彼を称える形容の枚挙に暇が無いほどの英才、久坂玄瑞です。吉田松陰は玄瑞を褒め、晋作を悔しがらせる事で、2人の才能を開花させようとしたようです。実際に2人は競い合い学び合い、そして高め合っていきました。
松陰は以下のような言葉を残しています。
「二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。晋作よ、世に才のある人は多い。しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。」(安政5年 7月 吉田松陰『高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞』)
これほど高く評価されたその才能も、1863年蛤御門の変に於いて散り、彼は幕末中期早々に舞台を去る事となります。
その期待の高さに反し業績の小ささを考えると、『天下一の俊才』の無念たるや、如何ばかりだったでしょう。
101110_岡田以蔵
今回は写真も肖像画もありません。現在、『岡田以蔵の写真』として出回っている多くは岡田井蔵(おかだせいぞう)の物であり、実際の以蔵をモデルとした写真や肖像は伝存しないそうです。
武市半平太の指示の下次々に、対立する人物を天誅と称して暗殺し、「人斬り以蔵」と恐れられました。幕末四大人斬りの1人でもあります。
そんな、土佐勤皇党の汚れ仕事を担っていた彼ですが、仲間からは疎まれていたようです。以蔵に命令を下していた武市でさえ、「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに」との手紙を残しています。
命ぜられるまま幾多の暗殺活動に従事した事。最後は拷問に耐え切れず仲間の名前を自白してしまった事。
これらの逸話ゆえ、剣の腕は立つが他の志士のように固い信念を持つ訳ではない、優柔不断な性格、との人物像がぼんやりと浮かびます。
そして、龍馬の口利きで、何と敵である勝海舟の護衛を行ったとのエピソード。
国を想う熱き志士の揃う幕末に於いて、以蔵のこの信念の無さはむしろ新鮮で、愛嬌のようにも感じられます。以蔵が、凄惨なテロリストであるにも関わらず不思議な人気を誇る、理由の一端ではないでしょうか。
101112_大久保一翁
幕臣・大久保一翁。
1853年、ペリー来航を機に日本の政局は一気に混乱します。当時の老中首座・阿部正弘は国家の一大事として、幕臣はもとより諸大名から庶民に至るまで、広く意見を募集しました。
これに海防意見書を提出したのが勝海舟でした。そして、勝の才略を見出だし登用に推挙したのが、この大久保一翁だったのです。
一翁はその後も、幕府が進める長州征伐に反対したり、龍馬らに先駆けて大政奉還案を将軍に提案したり(この時は却下された)と、幕臣でありながら日本全体を見据えた意見を訴えました。
そして江戸城の無血開城に尽力し、「江戸幕府の三本柱」と呼ばれました。
先見の明があり、
身分の上下、敵味方を問わず有能な人物を認める度量があり、
時勢に合わせて対策を打ち立てる融通性があり・・・。
日本史というドラマの中で、スポットライトを浴び、センターに出て来るような人物ではありません。
しかし当時日本が、内紛による国力低下、諸外国からの侵略を避ける事が出来たのは、彼の功労が非常に大きかったと言えるでしょう。
101113_佐々木只三郎
坂本龍馬を殺したのは誰か?
黒幕は薩摩だ、土佐だ、フリーメイソンだと様々な憶測が飛び交っていますが、実行犯については京都見廻組与頭・佐々木只三郎とその部下6名、でほぼ定説になっています。
というのも、その部下6名のうちの1人・今井信郎が、1830年箱館戦争で降伏し捕虜となった際、取り調べの中で龍馬殺害を供述したからです。
龍馬暗殺部隊を率いた佐々木只三郎ですが、実は彼は、1863年江戸で清河八郎を暗殺した張本人でもあります。当ブログの、幕末英雄列伝でも6人目に紹介した清河八郎を、皆さんはご記憶でしょうか。作家・司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の中に、以下のような言葉を残しています。
「幕末の史劇は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」
佐々木が龍馬を殺害した説が事実なら、何という因縁でしょうか。奇遇にも同じ人間の手により、その命が奪われたのです。
時代を変革しようとした2人の男、それをさすまいとした1人の男。
2人を殺す事は出来ても、世の中が変わるのを止める事は、出来なかったのです。
>幕末英雄列伝6につづく
※このエントリーは、旧『ちょーの&のぞみのブログ』に掲載していた文章を、改訂・転載したものです。投稿の公開日は、過去に記事をアップした日に設定しております。
0 コメント:
コメントを投稿